Audio Guide: 息の分だけ
写真家が立っています。
港の風が、髪を攫っていきます。
視線の先には、ついさっきまで在った全部があります。
手を伸ばせば届いた。ほとんど、掴んでいた。
その背中に、ふいに、遠い朝の声が触れます。
海に出る日に、母が言い聞かせた言葉。
海に潜る前に、必ず交わされる言葉があります。
それは「気をつけて」でも、「頑張って」でもありません。
「欲を出さずに、ただ自分の息の分だけ」
母がまだ幼い子の手を握りながら、海に出る朝にそう言い聞かせたのがはじまりです。やがてその子も母になり、同じ言葉を自分の子に伝えていきました。
済州の海は、穏やかに見えます。光が差し込み、魚が泳ぎ、珊瑚が揺れる。けれどその美しさのすぐ裏側に、潮の流れが、水温の壁が、見えない岩の縁が待っています。
だから「もう少し」が、命を奪う。
あと一つだけアワビを。あと少しだけ深く。あと数秒だけ。
その「あと」が、水面で待っている誰かを永遠に待たせることになる。
「息の分だけ」とは、自分の限界を知りなさい、という戒めではありません。
あなたが帰ってくるのを待っている人がいる。だから、帰ってこられる分だけで、いい。
そういう約束です。
ある朝、海女たちが浜に集まります。一人の男が声をかけます。
「皆さん、今日も欲を出さずに、息の分だけです」
すると、年老いた海女の息子が叫びます。
「母さんも息の分だけだ」
笑い声が波に混じり、海女たちは海へ歩いていきます。
この約束は、済州島で一冊の絵本になりました。
「ママとうみのやくそく」
엄마는 해녀입니다
海女のおばあちゃんが孫に伝える、
海の掟の物語です。
海に入ったことがなくても、
この言葉は、あなたの日常のどこかに届くかもしれません。
仕事で、もう少しだけ無理をしようとしたとき。
誰かのために、自分の息を使い切ろうとしたとき。
帰ってこられる分だけで、いい。
あなたを待っている人が、ここにいるのだから。
あなたが「もう少し」と思ったとき、
水面で待っている人の顔を、
思い浮かべたことはありますか。